名古屋出張で思うこと
私の父は、九州薩摩藩家臣の末裔と聞いている。
一方母方は、甲斐源氏の子孫、武田家に使えていた武将の末裔といわれている。
徳川の時代、江戸に於いて宮大工となり、代々その職業を受け継ぎ本家筋は今でも工務店を営んでいる。
しかし私は、名古屋で生まれた。
奇しくも武田家を滅亡させた織田信長のこの地で生を受けたのは何かの因果なのかもしれない。
そのこともあり、この名古屋の代理店はここ数十年私が受け持っている。
過去に、複数名担当替えを試みた。
私自身の行動範囲が広範囲に至っているため、少しでもフットワークを軽くするためには、若いスタッフに地域を振っていかなければ、この身が持たないと同時に私の年齢は年々高くなるが、代理店の窓口は若返ることによる年齢のギャップを埋めるためには、私の会社も新陳代謝を同列にしておく必要があるためだ。
しかし、どうもうまくいかない。
結局、私がまた担当として付くようになり、現在は無理して変えることなく今に至っている。
お付き合いしている方々も既に、定年に至っていたり、後数年で引退という年齢に達し、確実に一つの時代は終わろうとしているのに、私方は相変わらず今のままに対し、仕方が無かろうと半分あきらめている。
名古屋という地域は昔から仕事のしにくい地方だという。
しかしながら、それらの傾向はこの名古屋に限らず、どこにおいても見られることであり、そのようなことで悩んだ経験は多くある。
だが、特に尾張地方はその傾向が強いと言うことであろう。
私の母親は、生粋の江戸っ子と言うことで、怒るとべらんめえ調だった。
飛鳥山近くに小料理店を営む親戚の手伝いで女給をしていた頃、酔った客にお尻を触られそれに腹を立てて、金具の付いた草履で相手の額から血を出させたこともあるという。
酔っぱらって数度、警察のやっかいになったこともあり、近隣の有名人であったらしい。
そのようなことから酒を断ったと言うことだが、母が亡くなるまでの間にお酒を飲んだ姿を見たのはたった一度だけで、私は母はお酒が飲めない人だと思っていた。
親戚からぽつりぽつりと聞く母の昔話に、焼酎の一升瓶を肩に抱え、音無川あたりを散策(ふらつく?)母の若かりし頃を想像すると、こんな小柄な人がとちょっと信じられないというのが、未だに思っている心情である。
親戚の反対を押し切って、父と駆け落ちし流れ着いたのが名古屋だった。
母は、私が言うのも変だが、大変美人だった(もちろん若かりし頃の写真をしっかり見ての印象だ)
こんなかわいい人がずいぶんと思いきったことをするものだと、自分の親と思いながらも話を聞いたときにあきれたことがあるのを思い出す。
さて、その名古屋に出張した。
代理店に少し早めの年末の挨拶がてらカレンダーを届けながら、最近亡くなった担当を再び偲び、そこを後にした後、犬山近くの協力工場に顔を出した。
その会社の取締役とは30年近くのお付き合いであるが、その方ももう定年で退任間近の状態だ。
私の場合は、定年と言うまでは相当時間があるが、この業界に入り、お付き合いを始めた方は一回りも上の方々ばかりであり、その方たちに支えられ今日の私がいる。
そして、この商売のしにくいと言われている名古屋の地に、私の商売方法の原点があると言っても過言ではない。
揉まれ、突き放され、けんかをし、そして良い仕事をさせてもらってきた。
もちろん今も継続中である。
多くの方が、お世話になった方々が一人また一人この業界から去っていかれ、残された寂しさを今更ながら感じているこの頃だ。
奇しくも武田の怨敵の地が、私の営業原点というのも皮肉なことではあるが、ここは素直に受け入れよう。
日々流れる中、仕事のつらさの中でこの名古屋の出張は好きな仕事の一つだ。
ほっとする面もある。
私がここの出身であることもおおいにあるのだろう。
親戚もなく、在所があるわけでもないこの地であるが、やはり出生の地というのは別物なのだと付くずく感じる今日日のことだった。
そういえば、私はパチンコが嫌いだが母はパチプロだった・・・・・・・なぁ。
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